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2006.10.20

真! ゲッターロボ

 この作品、私は愛をこめて「キチガイロボットアニメ」と呼んでいる。もっとも、そう呼ぶに値するのは1話、2話、3話、そして11話だけだろう。かろうじて最終話も入るかも知れないが。
 そして、未だにこれに匹敵するキチガイロボットアニメがない。

 この作品の最大の魅力はなんと言っても、流竜馬と早乙女博士との、あまりにも濃ゆい台詞の応酬である。
 何しろ、死んだはずの早乙女博士と竜馬が対決する、というだけでも非常識な展開なのに、対決に際して竜馬の最初の台詞が「どうやって生き返ったかは知らねぇが」なのだ。死んだ人間が生き返る事については、最初から何の疑問もなく受け入れちゃってるのである。

 そして、初代ゲッターロボの行く手をさえぎる、無数のゲッターロボG。こんなシーンを、良くぞ思いついたものだ。
 さらにゴールとブライは早乙女が作っちゃうわ、最初は人間サイズだったゴールとブライがいつのまにか合体してゲッターロボと同じサイズになってるわ、早乙女博士は何度死んでも生き返ってくるわ、無数のゲットマシンが合体するわ、もうハチャメチャなんである。

 全編を貫いてるのはただひとつ、「問答無用」というポリシーである。
 これは、東方不敗が現れてからのGガンダムに共通するものがある。さすが監督が同じだけの事はある。

 物語世界は別に、全てがリアルである事だけがベストなのではない。コテコテのギトギトだって、面白いものは面白いのだ。

 何かイヤな事があったとき、心が疲れて充電を必要としているとき、私は気がつけばこのゲッターを見ているのだった。
 ゲッターチームよ、ありがとう。

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2006.10.18

ナルニア国物語

 この作品、最近すっかり愛用のGEOで、もう100円レンタルになっていた。まったく、時の流れとは早いものである。

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2006.10.17

ロボッツ

 以前は洋画を見るとき、必ずオリジナル音声&字幕モードで見ていた。
 洋画はオリジナル音声に限ると思っていたし、英語の勉強になるかと言う甘い考えもあったが、その方法で20年以上映画をみてきた結果がどうか、というのは語るまでもない。
 最近は根性がないので、字幕モードをやめて日本語音声で見る事にしている。晩酌のお供、という視聴方法からも、そのほうが気楽で良いし。
 こういうとき、その場の気分で視聴方法を選べるDVDはありがたい。

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2006.10.16

廃市

 さて、時かけ、転校生と来たら普通は当然さびしんぼうの出番なのだが、せっかく録画したものを消してしまった、というのは先日書いたとおり。いやはや、DVD-RAMとは便利ではあるが恐ろしい代物である事よ。

 そこで、これはある意味チャンスだったと思うことにし、さびしんぼうの代わりとして「廃市」を見た。実を言えば、これはこれで結構気に入ってる作品なのだった。
 一応、大林監督&小林聡美という組み合わせだから、転校生から続けて見るには無理がないはずである。

 この映画、もうずいぶん前に深夜テレビで見たのが初見。そのときからすっかり気に入ってしまい、スカパーで放送されたものを録画し、ずっと保存しておいたのだった。
 おそらく、特に派手な事件が起きるわけでない淡々とした内容が深夜のけだるい雰囲気とマッチして、すんなりと見ているこちらの気持ちの中に入り込んできたのだろう。

 話の内容はといえば、正体不明の「私」がその昔卒業論文を書くために逗留した田舎で体験したひと夏の出来事を語る、というもの。
 モノクロで始まりカラーに遷移する大林節は健在で、モノローグが大林監督本人というのはまあ、ご愛嬌。

 小林聡美の役柄は、主人公が逗留する屋敷の次女で、実質的にその屋敷を切り盛りしているという設定。
 で、この小林聡美、実におとなしい。作品世界の中では他の女性と比べるとお転婆なのだが、リアルレベルで言えばごく普通の女の子。というか、この作品世界の女性はみな極端に男性に対して従順過ぎるようだ。おそらく、それによって舞台となる地域の「時代遅れな感じ」を出そうとしているのだろう。

 小林聡美の姉の夫として登場する峰岸徹がまた、実によくもてる。妻が彼にベタ惚れなのに始まり、愛人、そして小林聡美もまた彼に夢中である。

 峰岸の愛人役で登場する女優は、さびしんぼうでPTA会長をやったり、転校生では和美の母親をやった人。こういったところにばかり目が行ってしまうのは、質の低いオタクになりつつある、という事だろうか。
 ・尾美としのりは今回、書生、というより雰囲気は下男といった役回りである。見てるとなんだか不憫な感じがする。考えてみたら彼、大林作品ではあまり良い目を見てない気がする。オカマっぽかったり、下男だったり、関谷だったり。

 この作品を初めてみた時は、小林聡美の演じた少女は原田知世の方がぴったりだと思っていた。しかしこうして改めて見直してみると、これは小林聡美でこそなのだ、と思うようになった。あの小林聡美が、やや抑え気味に演じているからこそ味が出ているのだ。

 で、この作品のどうでもよい主人公。ストーリー的には何も解決せず、小林聡美にまとわりついては、その合間に卒論書いてるだけ。でもって最後は、さっさと田舎から帰っていく。これほど、主人公がどうでもいい映画も珍しいのではないだろうか、と思ってみていたが、良く考えると実はこれでよいのだという事に気がついた。
 この映画の実質的な主人公は小林聡美であり、見ている側は語り手である主人公とシンクロすることで小林聡美と過ごす夏を疑似体験することになる。そのためには、この主人公はあまり癖のあるキャラであったり、バイタリティあふれる行動力があったりしては、邪魔になってしまうのだ。
 まさしく「何もせんほうがええ」という言葉がぴったりなのである。

 そして今回、初めてこれがATGの作品だという事に気づいたのだった。

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2006.10.15

転校生

 時かけを見たら尾道三部作の残りが見たくなってしまった、というのは前回書いた通り。
 そして尾道三部作といえば、転校生がマイベスト。もう何度見たことか。かつて新馬場の品川区立図書館で、館内貸し出しのLDを見たこともあった。あの時はそれだけで地方税の元を取った気分になったものだ。

 というわけで早速転校生を見る事に。
 相変わらず小林聡美の和夫は「男前」である。その態度や仕草、そして行動。どれをとっても、男子高校生として実に見事な男っぷり。
 尾美としのりの「和美」は、小林聡美の「和美」と比べて「ステレオタイプなヒステリー少女」のように思える。本物の和美はおそらく、ああいう振る舞いをしない。それは和美の魂が和美の身体にある時点での行動を見ていれば、良く分かる。小林聡美の和夫が男っぷりの良さを見せているだけに、こっちの演出は惜しい気がする。

 樹木希林のお母さんがいい。きっちりと亭主を立ててる。そして息子は甘やかさない。平気で蹴りを入れたりする。その芝居が大仰でなく、ひょっとしたらアドリブ? と思わせるようなさりげなさが良い。
 前は余り樹木希林の事は意識してなかったのに今回それが気になったのは、自分が作品内での父さんの立場になったからだろうか。

 最後、泣きながらトラックを追いかけていた和美が、やがて振り返ってスキップで戻っていくところ、いまだにその演出意図が判らない。今後自分はますますオッサン化からジジイ化が進む事を考えると、もうこの謎はずっと判らないかもしれない。

 さて、転校生を見終わったとなれば次は当然「さびしんぼう」なのだが、実は我が家にはさびしんぼうがない。前に録画した事はあるのだが、一度それを見たとき「もう二度と見ないだろうな」と思って消してしまったのである。
 あぁ、なんて浅はかな行動を……。

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2006.10.14

原田知世版「時をかける少女」

 先日アニメ版の時かけを見て以来、何故か心の中でずっと原田知世の「時をかける少女」が流れ続けている。アニメで流れてた曲は全然違うわけだから、何でそんなことになったのか全然判らない。
 ま、気になっちゃったものは仕方がないので見るっきゃないでしょう、という事でスカパーの放送を録画しておいたものを引っ張り出して見る事にした。
 実を言うと、通しで見るのは劇場公開時以来だから今回が二回目となる。録画したは良いが、全然見てなかったのである。

 いまさらネタバレもないだろうから、サクサクと。

 導入部のモノクロ画面を目にすると、あぁ大林作品を見てるんだなあという気分になる。
 そして劇場で見た時は気づかなかったが、スキー場で深町と和子が出会った瞬間に洗脳(?)が実行され、ケン・ソゴルはみんなのクラスメイト・深町として現代に入り込んでいく。
 その後、電車に乗り損ねるかもしれなかった云々というやりとりから、時間だけではなく場所も移動できる能力がある事が、そっと提示されている。

 見ていて意味不明だったのが、弓道部の練習で矢が的に的中する瞬間を見てしまうところ。矢を放つ前にそれが見えるのは、タイムリープ能力ではなくて予知能力なのではないだろうか。
 その直後、矢を放たずに練習を終えてしまうわけだから、このシーンが「ほんの数秒のタイムリープ」を表しているとも思えない。

 話が進んで深町君が正体を明かした時、和子は「深町との思い出だと思っていたものは実は、ゴローちゃんとの思い出だった」という事に気づく。
 にも関わらず、どうして和子はゴローちゃんではなく深町君にベタ惚れなんだ? 深町君との間にある本当の思い出って、崖から突き落とされたことと顔に墨を塗られたことぐらいではないか。
 おじさんには、さっぱり判らないよ。

 ラスト、デートのお誘い電話をかけてるらしい事から察するに、ゴローちゃんは和子一筋な青春を送っているらしい。
 怒れゴローちゃん、君は思い出と、本来だったら恋人になっていたかも知れない女性を乗っ取られたんだぞ。

 で、最後の歌。何しろ、これが脳裏に流れっぱなしになったから見たわけで、これをきっちり見ておかないと。
 劇場で見た時はこのエンディングに「勘弁してくれ」と思った。それが理由で今までも、再見の機会があっても見なかったのだった。
 ところが今回、見ていて特に抵抗を感じなかった。これは、さらに後で公開された「さびしんぼう」よりマシだからなのか、歳をとってこういった事に対して許容範囲が広がったからなのか。
 まあ悪くないじゃん、というのが今回の感想だった。

 そして意外な落とし穴。
 これは尾道三部作のど真ん中なわけで、これを見たら猛烈に他の二本も見たくなってしまったのだった。

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